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「趣味なんてこの程度でいいんじゃない?」とユルく生きてみる

修行

サンジャポ見てたら、堀江氏の寿司屋の修行不要論に杉村氏が噛みついてて、微妙な気分に。

私のイメージでは、堀江氏は態度や言葉の選び方は大嫌いだが、論理は嫌いではない。

杉村氏は、まったくもって見る価値ないって感じ。

あくまで私のイメージね。

 

で、今さらだけど寿司屋の修行に関する私の感想。

 

飯炊き3年、握り8年。私はあくまでも「普通はマスターするのにこれぐらいはかかるもの。その覚悟で修業しなさい」という意味だと思っている。

 

大事なのは寿司屋として大事なものを身に着けられるかどうか、まぁここでは「マスターする」という一言であいまいな内容をまとめちゃおう。

 

とにかく、「マスターする」のが目標で、それが5年だろうが10年だろうが関係ない。3年でマスターできるならそれでいいし、100年かかってもマスターできない人はダメだ。

だから、「○○年はかかる」「最低でも○○年」とかいう言い方に意味がないというのは同意できる。

 

だが、単においしい寿司を握るというだけの話ではない。お店にもよるだろうけど、季節に合わせた味のバランスやネタの扱い方、安定して“その店の味”を再現できるだけの経験となると、「修行なんて『要らない』」は極論だと思う。

 

堀江氏の意見を聞いていると、「マスターさえしていれば、何年の修行が必要なんて古臭い風習はナンセンス」という風に聞こえる。

マスターもせずに勘違いして店を出すようなら、客が来なくて店が成り立たない。ただそれだけの事。学生時代から起業して成功も失敗も経験してきた堀江氏らしい、突き放した論理だ。

私はそこまで突き放す勇気はないから、マスターするまで最低限の修行をした方がいいと言う。寿司の技術ももちろんだけど、経営や納税、お客様とのやりとりなど色々知らなきゃいけないこともあるからね。

 

一方、「修行こそ実績であり信用であり泊付け」って理論にはちょっと賛同しかねるが、まるっきりダメ論理とも言えない。例えば企業の入社面接とかだと学歴はその人の資質を見るための資料の一つになるだろう。でもそれは短時間の面接でその人となりを見分けるのは難しいからだ。

しかしながら、こと「寿司」に限定すると、目の前に商品があってウマいマズいはハッキリ見分けられるのだから、過去の実績にこだわらなくても良いのではないか。

 

あ、自分でウマいかマズいか判断できなくて、「ランキング本上位だった」とかでしか判断できない味オンチな方は仕方ないけど。